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当院のご紹介

ごあいさつ

大好きな鍼灸指圧マッサージの魅力をたくさんの人に伝えたい。

私自身が学生の頃に鍼灸指圧マッサージのおかげで辛い悩みから抜け出すことができ、人生が変わった経験をしました。

日本の伝統医療である鍼灸指圧マッサージは現代人の生活をもっと豊かで健康的なものへと変える力を持っています。

しかし、残念ながら今では鍼灸指圧はあまり身近な存在でないのかもしれません。

そこで、当院では初めての方が安心して鍼灸指圧治療を受けられるにはどうしたらよいのかずっと考えてきました。

なぜなら、鍼灸指圧マッサージ治療の素晴らしさは体験していただかなければ伝える事ができないからです。一度体験していただければ思っていた今までのイメージと違う新しい発見や喜びが待っていると思います。

是非、当院に貴方の健やかで美しい人生の手伝いをさせてください。

Take it eazy! 素の自分でいこう!

張り切りすぎて無理をしてしまう傾向にあります。

肩の力を抜いて、いつもニコニコ元気で明るくいきましょう。

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経歴

  • 1977年9月19日

    富士市にて生まれる。

  • 1998年

    沼津工業高等専門学校卒業。

  • 1998年

    呉竹鍼灸専門学校に入学。

  • 2001年

    鍼灸マッサージ師の国家免許を取得する。

  • 2002年

    富士市川成島にてあいしん堂を開設する。

  • 2006年

    現在の本市場へ移転する。

  • 2012年

    静岡県保健鍼灸マッサージ師会理事となる。

  • 2013年

    富士市鍼灸マッサージ師会副会長となる。

資格

  • はり師・きゅう師・あん摩指圧マッサージ師

所属

  • 一般社団法人 日本健康美容鍼灸協会
  • 公益社団法人 全日本鍼灸マッサージ師会
  • 公益社団法人 静岡県鍼灸マッサージ師会
  • 富士市鍼灸マッサージ師会
  • 静岡県保健鍼灸マッサージ師会
  • 富士商工会議所

その他

  • 柔道4段
  • 公認柔道指導者指導員
  • 普通自動二輪免許
  • アマチュア無線電話級

小林良幸ってどんな人?

1977年9月19日。富士市に生まれる。

福島県出身の父と清水市出身の母から生まれる。姉と弟の三人兄弟。

小学生から武道をはじめ、鍼灸はこの頃初めて出会いました。

市内大渕の自然に恵まれた環境で育ちました、よく友人と沢登りなど日々探検していました。知らない場所へと探検をして家に帰れなくなったことも何回かありました。

小学生時代はかなりのお婆ちゃん子で、帰宅すると夕飯の手伝いをしながらテレビの時代劇を一緒に見る毎日でした。そのためか運動音痴で球技と持久走が大の苦手なぽっちゃり小学生でした。

小学校5年生のときに拳法の道場が近所に出来たので軽い気持ちで習い始めたところドンドンと痩せていき、2年後には鍛えすぎてマッチョな体へと変わっていきました。

中学校では柔道部に入り、柔道の道場にも通いだしました。中学時代はとにかく拳法と柔道の事で頭がいっぱいでした。週4回道場、週2回の塾でしたが、道場も塾も自分から望んで行ったので何も苦じゃありませんでした。ただ単純に強くなりたい、もっとできるようになりたいという気持ちだけでした。この頃になる拳法や柔道の小さな大会で入賞できるようになり、自分の中で運動音痴だったというコンプレックスを無くすことが出来ました。苦しいながらもがむしゃらに頑張り続けると結果はついてくるんだと、漠然とした自信を身に着けることが出来ました。努力や継続する大切さをこの時に知ることが出来て良かったです。3人兄弟を毎日何回も送り迎えをしてくれた両親も大変だったと思います。

中学3年生のとき進路で悩みます。

自分は真面目で融通が利かない性格でした、悪く言えば頭が固すぎてコミュニケーションが苦手で人の意見とぶつかることが多く集団生活が苦手でした。

私の祖父母は農家、親戚は職人さんが多く物を作ることの大切さ、技術と知識を深めると良い仕事になると子供の時から身近に体験してきました。

そんな自分に合った仕事は「物作り」の道だろうと考えてエンジニアになろうと思い沼津高専の電気科へと進みました。

沼津高専は5年制の学校で2年生までは全寮制でした。

15才で親元を離れるという経験をして二つ自分自身に変化が生まれました。親への感謝と仲間との付き合い方です。コミュニケーションが苦手な僕にとって24時間の集団生活はとても大変でした。寮に入ったばかりの頃は毎日が刑務所みたいだと感じてホームシックになった時期もありました。しかし、仲間と毎日毎日深夜まで語り合うようになると毎日が修学旅行のように感じるようになり、だんだんと自分らしく生きる、素のままで生きることができるようになってきました。高専時代の友人はいつ会ってもあの頃と同じ雰囲気で、学生の頃と変わらず話ができます。そういう友人を作ることが出来たのが一番の財産でした。

このころ、家の経済状況がだんだんと悪くなっていたこともあり、バイトを増やして授業時間を睡眠にあてていました。よくいるダメな学生ですね。当たり前のように成績は下がる一方ですっかりと落ちこぼれてしまいました。

コンビニ、家庭教師、線路整備、ファミレス、カー用品店、工場、ポスター張り、カーナビの販売応援などを常に2~3個掛け持ちしながら色々やりました。

そんな生活の中、接客業のほうが自分に合っているのではないかと考えだしました。物を作ることは大好きですが、働いたときに相手が喜ぶ顔を直接見ることが出来る仕事に就きたいと強く感じました。そこでふっと浮かんできたのが鍼灸マッサージ師という仕事でした。

中学生の時に自分が柔道でぎっくり腰をやってしまい、腰を痛めて歩くのがやっと、横になるのもやっとの時に親に鍼灸院に連れて行ってもらいました。ベッドに横になりちょっと鍼を刺してもらっただけなのにスッと立つことが出来て、ふつうに歩けたあの時の驚きを思い出しました。

また、自分が20歳の時にバイク事故にあいました。相手の車が見えた瞬間に自分の人生は終わったんだと思いました。目の前が真っ白になってボーっとしているとだんだん白い世界に青い色が見えてきました。しばらく時間がたって頭がはっきりしてくるとそれが雲と青い空だと気が付き自分が仰向けになって倒れているのがわかり、なぜまだ生きているのか不思議に思いました。足に大きな怪我をおいましたが幸いにも後遺症も残らず、3週間で無事に退院することができました。九死に一生を得たのは柔道の受け身を習得していたことは間違いありません。ただ、それ以上に自分自身がまだ生きていいんだ。まだ生きて何かやるべきことがあるんだ。残りの人生はオマケの人生であの時本当なら死んでいたのでなにか人のため世の中に役立つことをしようと人生観がかわりました。

そのような体験を経て、自分が世の中で必要とされるためには『鍼灸マッサージ』という仕事以外にないと思い直し就職活動も一切せず、そのまま呉竹鍼灸マッサージ専門学校に入学しました。

専門学校はいろいろな人がいました。クラスメートは50代から18才まで。みんな仲が良いクラスで社会人経験者がたくさんいて色々な話を聞くのがとても勉強になりました。

私は卒業して一年で開業するということを決めていました。いつかは独立開業しなくてはいけない日が来ると思っていたので、だったら実家暮らしで独身のうちに始めよう。やるなら早いほうがよいと若さと勢いだけで決めてしまいました。

卒業して国家資格をとってから一年間、開業資金を貯め、技術と知識を高めていきました。

そして2002年に富士市川成島で『あいしん堂』を開業しました。

鍼灸マッサージ師の国家免許を取ってから修業は積んできましたが、会社勤めもしたことがない世間知らずの24才の若造です。当然患者さんは少なく暇な日々が続いていました。夜と日曜日はスーパー銭湯でマッサージのアルバイトをして食いつなぐ日々が続きました。

この頃はいろいろな患者さんにたくさん助けてもらいました。息子を見守るような感覚で声をかけてもらってばかりでした。「掃除はもっとここまでやらなきゃダメだよ」「近所にあいさつ回りするなら一緒に行ってあげるよ」「言葉使いのここを直したほうがよいよ」「知り合いに紹介してあげたよ」

お陰様で少しずつ患者さんが増えていき大波小波を乗り越えながら地域に根付いた治療院として支持されてきました。今でも開院当時から来てくださる患者さんが来院してくださいますが本当に頭が上がりません。

その後、結婚して二人の子供の父となりました。

家庭を持つことにより一層仕事にも熱が入るようになりました。

その後2006年に現在の本市場へと移転しました。

忙しくて家族と一緒にいられる時間が少ない分、職場と住居が一緒の場所で仕事ができるようにという思いからでした。

今では子育てもだいぶ落ち着いてきたので、自分が大好きな鍼灸マッサージをたくさんの人に知ってもらいたい、体験してもらいたいという気持ちが強くなってきました。

業界団体を通して啓蒙活動に協力したり富士商工会議所青年部(富士YEG)などで地域活性をしながら、身近な先輩たちに社会人としてたくさん学んでいる最中です。

大好きな富士市が、東洋医学の鍼灸マッサージで「健康のまち富士市」になることが僕の大きな願いです。

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2014/11/07